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・ハイライト

 街を構成する建物、そして建物を構成する素材は物理的に風化する。その過程に働いた原因と作用は様々である。
 その道を壁沿いに歩く親子のような二人のうち、背の高い人物がマフラーを巻いているような描かれた方をしており、後ろから付いて歩く小さい人物も同様であると見える。だから、季節は冬。シンプルな長袖の上着で寒さを和らげられるその日、街は石で作られたゴツゴツとした感触が強調され、単一色の、豪快な筆使いには場面を押し潰すぐらいの描き手の凝視が及んでいる。描き手が若くして夭折したという情報を知ってからは、一秒でも多く描くことに費やしたい作家の渇望が場面をフォーカスし、養分として抽出された幻想が固形化したように思える。
 この一枚の主役は背景となる街でも、先の二人の人物でもない。描き手の佐伯祐三氏は壁に貼られた広告である、色付き、印字され、そこから引き剥がされるまでにその大胆な踊りを一生行い続ける踊り子などが掲載された各ポスターの様子を見つめている。
 表情どころじゃない、目や鼻や口等のパーツに欠かせない何もかもが描かれず、身に付けている衣装の色以外に興味が湧かない凸凹な二人に比べ、ポスターに掲示された文字や絵はその心情に踊り、現実にはみ出して存在する。紙面に使われている鮮やかな配色を効果的に用い、文字は人の目を誘う。作家の視線の力強さを思えば、これらの文字も捻じ曲がっていいはずだが、所々で読み取れるぐらいには形を持つ。または文字であったことが分かる程度に生きた線となる。その特別扱い、贔屓には、『街』に込められた活況と現在が現れる。そこで謳われるものは見る人の欲を刺激する。それが石の壁に貼られている。そこに貼るからには、人通りはあるのだろう。ひょっとすると、その道が『街』に繋がっているかもしれない。またはその通りが街の端にあったのか。想像はできる。しかし、佐伯祐三氏が見つめる視界からは広告内の活況が見て取れない。その間にあるギャップが描き手の幻視の力に引っ張られ、現実を超えた一枚の上に街のあり様を絶妙に折り重ねる。
 広告に表れる経済社会あるいはその功罪というテーマはその時代の作品としてありきたりか、いやそうではないと否定できる理由を字体が担う。その形がいい、と今も思える一語、一語は佐伯祐三氏が観た記憶の証であり、その脳裏に焼き付け、画家として改変したデザインである。一本、一本の線の幅を太く、細くし、字体丸ごと拡がり、あるいは認識困難なほどに痩せ細って、広告主の目的を打ち砕かんとする無邪気さである。活き活きとした有り様は、無責任に楽しくなる。混線した色が分化不能な程に飲み込まれている石の壁は、同様の過程がその限られたスペースで何度も繰り返された結果として時間を汚された。そう意地悪な視線を向ければ、決して真っ直ぐに伸びていない壁がすべての文字に命を与えている。当否なんてそっちのけ、社会の動きとして蠢いている。
 その一枚に住まう数少ない二人は何も気付いていない。「その時」に気付けないことは多い。後にならなければ言えないことがある。道の途中に立つ街灯は、夜間でないという理由にのみ従って、どこにも明かりを灯していない。その時点で明るみにすべきことはない。したがって、観ている側だけが、もの言わぬポスターの中で見事な衣装で踊る彼女の現在を知りたいと強く願える。
 歴史に残らない、画家の観た景色。遺構と呼べない主観的事実を前にして、言葉を選びたいという気持ちで記す。
 人の知らない所で進化を遂げ、生き物の如き生命を獲得したかのような黒い文字は知らない音を発する。聞き取れたとしても、意味を認識できるかどうか。だからお手上げだ、と諦める気はない。それを記憶して、記録して、記して、とその過程で直接壁に書かれた「終わり」を意味する(ように読める)あの三文字を写真の中で見つけてからは、朽ちた広告の住処を探す始末に追われる。動機と化した燈が消えない。
 人知れず風化が始まっている(としか思えない)街に漂う、塗り損ないではないかと訝る線を残さず拾い、逆巻くことのない刻の未来を思う。
 画に表れる氏のセンスに惹かれた。
 佐伯祐三氏の『ガス灯と広告』という一枚である。


・対立

 ただ枕がある。でも、誰もいない。
 自然に波打つ皺はあっても、そこを使った誰かの、無意識な動きが作る皺がない。
 冷たく静かな寝室の雰囲気はとても伝わってくる。だから、誰もそこに居ないことも伝わってくる。
 解説に記される死の印象が、目の前の心地良さそうな枕の様子に和らげられ、安堵とともに寝てみたいという正直な気持ちを揺り起こす。いや、でも、という躊躇いも。
 覚醒している私に、誰も使っていない白い枕。立ち去れる私に、在り続ける枕。気になって戻って来る私と、何一つ、その様子を変えることのない枕。動けない私が、怖いのにいいなと思っている私が、頭を乗せてみたいと呟く願望に否定の意思を投げつける私が、離れられない、ひとつの枕。
 その当たり方も、その量も、意味ありげな光。
 乱れがない、そこに掛けられた一枚には死につつあると否定的に述べられた「生きている」という現実が、強烈なメッセージが発せられている。
 『PILLOWS』という作品。
 怖いのに、離れられないのに。


・対立2

 外を飾る額縁も見ると、様々な二項対立が見つけられる。寝ている二人、多分、男に女、茶毛の色に濃淡があって、ストレートとウェーブ。お互いに、一つのベッドを左右に分け合い、一人は右横を向き、もう一人は仰向けで、顔を左に傾けて眠っている。枕の沈み具合が違っていて、体を預けているベッドに敷かれたシーツに寄った皺より、体に掛けられている布団の皺の方が深い。毛布は黒で、三段階に重なる額縁の間に挟まる溝のような黒と呼応する。背景に塗られる水色も、鑑賞者から見て右側が濃い、のかな。気のせいかもしれない違いにも現れる二項対立。眠っている様子を起きて見始めたときから、いいなと思った第一印象の思うままに鑑賞し、離れた後も残る印象を『姉妹ねむる』というタイトルで付箋する。
 眠っている人たちを見ていたときの、あの安心感は何なのだろう。
 夢のような時間、という強い香りを発する口を言葉ごと懐に仕舞い、胸あたりに生まれた皺を密かに伸ばす。


・緩やかな繋がり

 国籍の異なる複数の男女は同じ土地に住む。幼年から老年に至る各人の年齢差は、それ程気にならない。各人には家族に関する様々な事情があり、その内容や各人の思いを語る。語られる側の人物は父や母、兄弟姉妹、従兄弟や祖父母、孫などの身分関係上の呼称で語られることもあれば、(偶然にも)同じ名前で語られることがある。
 各人の声や話し方、抑揚や気持ちの込め方は異なる。淡々と話す者、涙してしまう者がいる。複雑な思いを伝えようと、つっかえたり、行ったり来たり、言い直したりする。特徴的なのは、吊るされた三つの液晶画面に映る者の一人が語っているとき、他の二人はひたすら眠っているという点である。語っている一人の話が終わると、眠っている二人のうち一人が目を覚まし、話し出す。語り終えた者は目を閉じて眠り、もう一人は未だ眠り続ける。どの画面の、誰が覚醒して話し出すのかに決まりはないようで、語りが終わった後、語った者が眠り、眠っていた二人の誰かが目を覚まし、語り出す。この語り出すまでの間は無音が静かに場を動かす。少し、緊張するのだが、この展示における小休憩は一拍のリズムとして欠かせない。聞く側を一種のニュートラルに戻す。
 三人のうち、一人しか語らない関係にある彼らは、だから互いに話し合うことがないし、一人が語っている話を聞くことがない。
 したがって、彼らの話の全てを聞いているのは私たちだけということになる。
 彼らの話は緩やかに繋がっているため、彼らの話の全てを聞くことができる私たちの中で「一つの話」として結ばれる。芥川龍之介の作品ではないが、一つの事実に関わった各人の記憶の中で、話が異なることはあり得る。立場や感じ方などの違いが各人の中で強く作用し、一つの事実に対する記憶が一致しない。その記憶が話として誰かに伝わっていけば、ますます事実から遠ざかる。終いには、事実とかけ離れた「まるで夢のような」話を聞くことになる。
 ここに記す映像展示は、正にこの体験を味わうことになる。一方的に語られる内容を受け止め続ける私たちの中で、蓄積されていく彼らの話がどんどんと大きくなっていく。話を聞けない少しの間は、次の語りに備えることにしか使えない。それまで聞いてきた話を纏めることは難しい。
 ついさっきまで見ていた夢なのだろう、各人が語る内容が生々しく現実に生み落とされ、映像と音声を介して私たちが見聞きし、その内容を情報として知る。時と場所を大きく越えた彼らと私たちとの間で行われるやり取りは、こうして記せば一方通行だと分かるが、その場では不思議と気にならなかった。こちらが一言も発していないという理由から生じてしまいそうなフラストレーションは、設置された展示であるという認識から説明され、感情的にならない。ただ一方で、その場で彼らの話を聞くことが気持ち良かったというのも、私が彼らの話を聞き続けた理由だったことを記す。彼らの話を聞いてみたい、何なのかと見極めてみたいという欲求に駆動された姿勢は、私が決めた。一言も発しないことを、私が選んだのだ。
 映像展示は苦手なことが多い。客観的に観れる隙間が多いと感じてしまう。
 ジャオ・チアエンさんが手がけられた『レム睡眠』は違った。この体験が出来ただけでも、『眠り展』にとても満足したと書ける。
 冷めない感想を終えられる。


・ガイド

 作家の名前、活動時期、経歴、掛けられた一枚のテーマ、技術、美術史における位置付け等を分かりやすく、簡潔に記す解説は、鑑賞者の助けとなる。情報を知った上で見る面白さは、情報を知らずに観る面白さと変わらないし、感想を比べて異同を見つける面白さがある。
 展示される各作品に添えられる解説と比べ、各展示スペースに記される冒頭文は、これから見る各作品を取り上げた意義や理由が記される。国際的な視点があれば、国内に限った見方で区切ったスペースを滑らかに案内する。または、いま現在の社会状況を踏まえて、そしてその先の在り方も見据えて、これから進む展示の意義が伝えられる。説得力があるし、力強さがある。ときには励まされることもあるだろうか。過去の出来事として受け止めていた結核の流行を、絵や雑誌の記事などを通して伝えるスペースを見終わったとき、歩みを新たにした気持ちが一時的なものにならないよう、気を付けたいと感じた。共通する状況があるのだから、自戒の意味を込めて「今とかけて」こう記したい。
 他にも、素敵な花々に出会えるスペースがある『MOMATコレクション』にて、好きな速水御舟氏の一枚が見れたことが個人的に嬉しかった。写真で残した画像からは伝わって来ない一粒、一粒の瑞々しさだけが残念だったから、思い出す努力を、忘れない足掻きとともにする。
 ガラス画も初めて見れた。弾力を感じる色の塊が絵を構成する。解説にあった「影」を探して二度目、何処にも見当たらない不思議の意図を見つけられなくて、じっと眺めた。未消化のままフォルダに収めて画面に映す、現代の作家のパワフルな作品も多かった。
 月が浮かび、帰って来た主人を見て泣き伏せる妻、侍女たち、それを支える主人。そして、画面の端の犬が身体を曲げて、全てを見上げる。何もかもが丸みを帯びて柔らかい。月を覆う暗い雲が、そこに残した空白の明るみを優しく描いた日本画のことも、ここに記す。
 なお、計算された子供たちの構図は、そのリズムを、踊られる前のバレエとともに目にすることをお勧めする。


・抽象

 最後に手に取ったパンフレットに記されていた絵が一番良いなと思ったものだったから、驚いた。
 開いた頁の右側に印刷された一枚について書かれた文章は作家が抱いた心象を言葉で綴ったもので、抑制の効いた言葉選びに残る微熱が確かに伝わる、良い文章だと感じた。設けられた展示の初めに書かれていた内容に対しても抱いた感想だった。そうして再度、右側の一枚を見た。誘導されたと思えない、安堵と期待の夕暮れが間も無く終わる、寄港の途に着いていた。
 直観は、蓄積された経験と知識の高速処理と信じて、抽象画を見てみるときがある。そうして得られる感想は「なんか良い」だとか、「これがお気に入り」だとかの単純明快な内容にしかならないが、感想自体を得られないときも少なくないので、結論としての感想を確信できたときは、ホクホクとした心持ちになる。そこから少し踏み込んで、論理的に理由や根拠を見つけようと試みるが、これには大体失敗する。用いられている色や、塗り重ねられた絵の具の盛り具合、筆致の流れと各要素を分けてみたところで、トータルとしての抽象画に対する評価に届いた高さが手に入らない。
 何回見ても、その絵を「なんか良い」と思う。そこに見出しているかもしれない物語や、配色の好み、もしかすると重視しているかもしれない絵のサイズ等の要素及びそれらに下している評価を上手く腑分けできない。だから面白いけれど、釈然としない。答えが見つからない。そこを寂しいと感じる。以前、どこかでそう記した。
 答え合わせができる抽象画、といってもいいだろうか。先のパンフレットを読んで、今までの抽象画と違う満足を感じた理由は、その絵に表れた作家の心象風景の手がかりがあったからだ。答え合わせ、という表現に感じる語弊を払うなら、完成された絵と作家との関係に入り込めるヒントと記せるか。
 抽象画を描かれる作家の視界が最も想像し難い、とずっと思っていた。パンフレットにあるヒントをもってしても、その全容が見えることはない。それぐらい、抽象表現の懐は深い。けれど、下草が踏まれ、自分も踏み込めるかもしれないと思えるけもの道が見つかるだけでも、素直に嬉しい。その道筋が、私自身の願望が存分に反映された私個人のものであっても、そこから見える視界のどこかにぼんやりとした姿が見える。そういう心強さを感じた。
 『揺れる眼差しはすでにヨコシマ』。
 不覚にも笑ってしまった、ユニークなタイトルを残して綴じよう。
 
 
 
 

Title

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  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-12-24

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