告白
一
あの便器が突き付けるのは、芸術なんてものは個々人の頭の中で作り上げられるものであり、ある意味、好き勝手に外部に投影されるものである。だから、芸術を生み出すのは、人の頭で語れるテキストを疼かせる仕掛けや構造であり、客観的に存在するものではないという、指摘されるとどこかが痛みそうな芸術の『裸』な部分でないか。
著名な彼のサインが書かれたその便器を実際に目にした時、筆者が感じた素直な感想である。一見すると、皮肉としか捉えられないと思えるが、先の指摘は次のように解釈もできる。すなわち、人の見方そのものが芸術表現である、したがって、誰でも、いつでも、好き勝手に『芸術』して構わない。そういう、人の生き方にまで昇華されたような普遍的肯定である。
学芸員の方々が面白い切り口で、またしっかりとしたコンセプトをもって開催する良質な展示に触れる機会に恵まれたお陰で、現代アートの見方を楽しんでいる筆者は、しかし現代アートに対する懐疑的な目線を捨て切れていない。その理由に触れる機会があって、「ああ、これが苦手だったんだよな」と思わずその場で呟いた。その場に誰もいなかったので良かったと安堵しつつ、聞こえた自分の言葉に妙に納得させられ、忘れ物を忘れた理由を思い出すように、改めて考えてしまった。その中で、先の便器のメッセージも記憶の中から現れた。
だから、その「理由」は仕掛けや構造に関係する。
筆者は、先の便器が指摘する芸術の在りどころについては同意する。以前にも記したことがあるかもしれないが、『芸術』も表現であるから、誰かに見てもらうことで活きる。それは、見る人の中で生じる。その運動は、客観的に見れば、見ている人の頭の中の出来事である。受け止めた表現を咀嚼し、味わい、様々な色や形を伴い生まれる感情的経験である。その経験の評価は各々で異なる。しかし、重なり合うところもある。それを語り、検証し合い、伝わっていき、普遍的に語れる一定の評価が共有される。そうして紡がれるテキストそのものには、文化的価値も見出せる。このように成り立つ芸術的価値は、一つの見方、語り方にとどまる。けれど、それを学び、世界の見方を変える喜びもまた、芸術表現の面白さになる。
仕掛けや構造と見れば、絵画を構成する全てがそうだと指摘できる。もっと言えば、筆者がこうして記している文章を構成する要素の全ても、表現として、伝えたいことを余すところなく伝えようと試みるために用いられている、仕掛けに構造である。つまり、認識されることが不可避の目的となる全ての表現には、その意味内容を託すための要素、そしてかかる要素によって形作られる構成を持つものだと考える。かかる考えに基けば、先の便器は表現に共通する骨組みを指摘しただけになる。
しかしながら、先の便器の指摘には何かざわざわとする感触がある。肯定的なメッセージを見てとった筆者であっても、そうであった。だからこそ、美術史の一頁に記される作品として取り扱われるのだろう。それは一体何なのか。
思い付くのは、芸術鑑賞がただの思い込みに過ぎないという点を的確についていることに覚える、抵抗感でないかということである。
筆者は、日常的に用いる道具に芸術的価値を見出すことはまずない。デザインとして好ましい、と思うことはある。しかし、日用品に対する評価は便利さを優先する。このような日用品を使用する中で、世界の見方を変えられるような表現を見てとることはない。しかし、便器は見るもの全てに芸術表現が潜むことを述べている。ということは、筆者は美術館という空間、雰囲気に浮かれて、作品からのメッセージという空想を見出しているに過ぎないのでないか。そういう仕掛けに酔っているのでないか。そういうある種の恥ずかしさを否定したくなる抵抗感である。
これに対しては、例えば絵画と便器とでは、鑑賞者に求める欲張り方がまるで違う。日常的に使用される便器に比べ、絵画は兎に角、「あなたなりに読み解くこと」だけを要求し続ける。この点で、絵画と便器との間には、表現物としての大きな違いがある。仮に、絵画の代わりに美術館に便器を並べた展示があったとして、洗練されていく便器のフォルムの過程を知れる以上に、そこに読み取れるのは『芸術』とは何か、という根本的な問いになるだろう。日用品としての便器は、商品としての形を自ら超えたりしないからだ。そこに芸術的価値を見て取ろうとすれば、「便器は日用品である」という認識を超える努力を鑑賞者の方でしなければならない。言い方が悪くなるのを承知で記すと、そこにはある種の無理が働く。この無理は、便器が美術館に置かれているという違和感のある状況が持つ力に頼っている。美術館、という空間が剥き出しになっている。そこに寄り掛からないと成り立たない鑑賞は、とても理屈が強くなる。冷静に、客観的にと強いて行う鑑賞は、そのうちに俯瞰の視点を得て、下方にいる自分を見るようになり、話しかけてくる内なる自分の問いに気付き、明快な解答が出来ず、黙り込んでしまい、感じざるを得ない恥ずかしさとなり、それを否定したくなる心情となっていく。
内省、と記してもいいだろう便器の指摘が目指す的(まと)は、そもそもが芸術表現を超えたところにあり、直球ストレートのど真ん中でミットを構えると、かえってその指摘が描く急な軌道を捕球し損なう。したがって、あの便器の前に立つ鑑賞者も、あらゆる認識の枠を事前に又は事後に脱いで外して、ある種の裸になって詩的にみる必要がある。そういう迫り方を、あの便器が行っている。抵抗感は、このような世界に対する認識の不安定さに由来している。
芸術表現の基底が丸ごと揺さぶられる。そうして感じ取ってしまう、ざわざわとした抵抗感は思索の道へと続いている。こうして、かの便器はインパクトのある一作品として歴史に残る。便器の仕掛けはここにある。この仕掛けに対して行う理性によるアプローチによって、便器に隠された大輪が花開く。つまりは問いかけに、答え。有名なロダンの彫像にように、「うーん」と唸って考えなければならない表現である。
考えなければならない表現。枠を外せた喜び。嫌いじゃない、というのは筆者の感想である。
ラディカルなメッセージを伝えることは、現代アートも得意とするところだろう、と筆者は考える。空間を駆使して鑑賞者を巻き込み、作者の世界を体感させることができる現代アートは、取り扱える情報量及びその多様さをもって『芸術』の概念自体をひっくり返せるパワーがある。あらゆる仕掛け、構造を組み立てられる幅広さがある。この点で、現代アートは芸術表現のホットなジャンルになり得ると評価できる。有難いことに、この面白さを筆者も体感している。
だが、と再び記す筆者の現代アートに対して覚えていた躊躇いは、それこそ筆者の趣味趣向が表れた「理屈っぽい」愚痴になのかもしれない。
その作品を前にして、そのパワーに巻き込まれたい。受けた印象に言葉をくっ付けてみても、まだ語り尽くせない存在を抱え、感じていたい。それが絵画であっても、現代アートであっても、作り手が形にして送り出したその『もの』を見ていたい。筆者は、こういう理性が届かない余地を芸術表現に期待し、それ以上に応える作品を目にする機会を得られたことで、芸術表現の良さをそこに見出している、と改めて思う。
そのせいで(と続けるべきなのだろう)、余りにもこちらに理性で読み解く求め方をする、と感じてしまう表現を前にすると、途端に冷めてしまうことが少なくない。そのときの内心で蠢く葛藤を記すと、こうなる。
「なんというか、その作品の言いたいことが明確にある(と、とても感じる)。しかしそれは論文にして発表しても良かったのでないか、なぜ、いま目の前にある形の表現でなければならなかったのか(と、思ってしまう)。心打つ素晴らしい作品、と思わざるを得ない表現には人としての作者の影も形もないと思うが、ここには別の機会を得れば、一から十まで雄弁に語れる様子を見せる誰かがいる(そうでない、と否定できない)。逐一、施した仕掛けや構造の意味について行われる詳しい説明がある(ように思う)。丁寧なガイドによって、進むルートも決まっている(真っ直ぐも、くねくねも)。混沌の壁に貼られた矢印があるのでないか、と気になって左右を見渡してしまう(右にも、左にも)。その壁の向こうに見える景色も現実にフィットしていて、歪みがどこにもない(窓は社会に開いている、文字通り)。
見かけに反して、整然とした主張。だから、かえって何かが足りない。あの作品にも、この作品にも感じられた熱量であるような気がするのだが、何だろう、と考える。
何だろう。
何だろう、は抽象画にも浮かぶ疑問であるけれど、しかし抽象画には親切なガイドが見当たらない。そのため、鑑賞する筆者は好き勝手に遊べる。遊べる、は自由さを感じさせる表現である。では、足りないのは自由?そうかもしれない。でも、それだけでもないように思える。では?何だろう。
何だろう。」
と、いう具合である。
この葛藤を久しぶりに感じて、そうだったなー、と苦味を噛み締めつつ、何が違うんだろうと考えていたら、これがヒントにもなった。連想は、まさに生みの親であった。
仕掛けや構造。
頭の中で、動く『表現』。
ああ、と筆者の中で留め続けた「もの派」が立ち上がり、表面的にでも綴ることができると、やっと思えた。だから、敢えて話を逸らす。
展示されている只中に飛び込んだ「もの派」の表現は、シンプルに尽きる。したがって、その仕掛けや構造を記すのに文字数はかからない。それは、「もの」と「もの」、「もの」と「ひと」の配置及び関係である。
福岡伸一さんが著作で記される通り、人は対象間に関係性を見出す。星座はその最たる例である。見上げて輝く星々の間に、物語的な関係性を人は見て取った。対象の認識と、その対象が有する意味をもって外界を分節し、繋がりを見つけ、分類を行い、括る。脳内で行う情報処理である。
「もの派」の表現は、この脳の作用の上に育つ、と筆者は考える。「もの」を置き、「もの」を離し、「もの」を敷き詰め、無駄な「もの」を除く。そうして形になる「もの派」の表現は、間(ま)を生む。この間(ま)が落ち着きを生み、緊張感を支えにする。
「もの派」の表現は空間であるから、鑑賞者はある意味、邪魔者として入り込まなければならない。そうして、そこにある「もの」と関係する。そのために、入れ子状の認識の下で、鑑賞者は「もの派」を鑑賞することになる。鑑賞者が二人以上居れば、その「鑑賞者」同士も緩やかに関係する。そして生まれる間合いに、緊張感が「もの派」の表現を新たにする。このように、「もの派」の表現は、人の認識の上で常に変化し、生き続ける。
「もの派」の表現には無理がない、と筆者は思い、不思議に感じた。表現をシンプルにすることは誤魔化しが効かない。だから、作者の意図がモロに見えることになり易い。言い方を変えれば、狙っていることが透けて見える。ポエム、という揶揄に込められるキザくささに似た冷め方をしてもおかしくない。それぐらい、「もの派」の表現は切り詰めていると思える。
しかし、実際に飛び込んで感じた「もの派」の表現は心地良かった。どうやるのか想像できない、何も知らずに真似をすると、失敗すると確信してしまう練られた作法がそこにあった。食事の仕方などの日常的な振る舞いも、悟りにつながると説く禅に近いイメージは、この作法という点で響き合うのかもしれない。
息をするのと同じぐらいに自然に、必然をもって置かれた「もの」たち。
「もの派」は、だから人の中で表現される。筆者はもの派について、こう綴れる。振り返れば、人の中で生きる表現、『泉』と命名されたあの作品も、そう指摘していたのだった。
観念に強弱は見出せない。ただ、人の認識に食い込む深さの違いはある、といえるのかもしれない。
筆者が感銘を受けた現代アートの表現と、未だ戸惑う表現との間に立って、いやいやと首を振り、あっちに向けた足先を、こっちに向けて見つめてみる。対外的に述べられる理路整然とした答えが自分自身の中にあってもなくても、気になる関心に従って、その内外を彷徨くのだろう。
警告を示す黄色いテープがどこにも貼られていないそのジャンルのスペースにある、可能性に無関心ではいられない。
筆者が締めの言葉に選びたいのは、そういう中途半端な告白である。
告白