声
一
大切なことを知っているからこそ、きちんと怒ることが出来るのです。怒りの源はそこにありますから。大切なものを守るために怒るのです。怒ることは大切です。
しかし一方で、人は怒っていることに怒ることが出来る。怒るために怒っている、ということが少なくない。そうして怒りに囚われる。そうすると、怒ることの背後にある大切なことが見えなくなり、分からなくなり、そのうちにどうでもよくなる。
そうして失うのです。あなたの一部を、大切なことを。
怒ることは、こうして難しくなります。怒り方が、とても大事になります。
こうすればいい、というノウハウは、しかし常によい効果をもたらすとは限りません。こう怒ればいい、は別の怒り方を暗に否定している、ということを否定できません。それは、大切なことに合った怒り方を押さえつけているともいえます。人は感情で納得する、とは数学者の岡潔さんが対談で仰っていたことだったでしょうか。背景にある大切なことを、大切に取り扱ったまま、きちんと怒る。それも、個々の怒りに合ったものとして、感情という反応を納得させる説得力をもって。歯車の噛み合いが大事になりそうです。
こう見ると、怒るな、と言われて感じる抵抗感は、その背後にある、その人の大切なことを無理に押し込んでいると感じてしまうことから生まれていると考えられます。また、怒ることは表現ですから、必ず誰かにそれを伝えている。このことは、誰かに対して怒りを表現する場合に限られません。たった一人、その心で怒っている事実は、その怒りを感じるあなたが知っています。人は、自分に対しても孤独でいられません。一人になることは、本当に難しいことなのです。
誰かに伝わる怒り、それは自分の大切なことを表す。だからきちんと怒る、では、どういうときに?という場面の問題を、その方法とともに考えたくなります。
話の筋を少し変えて振り返ると、聖人君子は怒らない、というイメージがあります。このイメージが事実なのかは、聖人君子になったことは勿論ないですし、会ったこともないので分かりません。
この点を掘り下げようと、聖人君子を聖人君子足らしめている条件なんて考えてみたくなりますが、その条件を整えれば聖人君子になれる、なんてこう書いてみて明らかなくらい眉唾物に思えて仕方ありません。共通点を、誰もが備えればそうなるという衣装のように捉えるのも興味深いとは思うのですが、やはり的を得てはいないのでしょう。聖人君子、と称えられる歴史的なご本人の姿がどこにも見えません。
想像するに、聖人君子と言われてきた方達は、その在り方、振る舞い方が違ったのでしょう。確かに、周囲の方達に語ってきたその言葉には、現在も計り知れない知恵がある。でも、それ以上にその教えを彼らは体現していた。その方達が考え、見つけ、識った知恵のすべてを以後も見失わないよう、何より本人達が見つめ続け、そう努め続けた。その内心で続けられていた、果てしない学びあるいは生まれ続けた闘いは、その姿を作り続けた。それが誰かの心を強く打った。そうして生まれた物語があった。
そうして、形作られ、今も語り続けられる理想型としての聖人君子。何にも怒らない。揺れたりしない。
彼らの周りにいた人々の肌実感に基づく、断片的なエピソードで綴られた物語があり、それらを深く掘り下げた教えの数々はこれからも語り継がれるべきでしょう。その教えを享受することは、その人の世界を変える力に満ちています。そしてまた、形から入る学びがありますから、その鋳型に自らを押し込むことに意味があります。そうして見える「向こう」がある。
でも、型に嵌れば良し、と怠ける慣れ方が人の脳内には生まれるのも否定し難い事実です。パターン化が悪いとか決して口にしません。効率化はしっかりと学べた結果です。しかし、変わることは世の常です。是非の判断も、状況に寄って変わります。
私が知っている例を挙げると、ある宗教の教えを説く人、またその教えを学んでいた人達が、不特定多数人に紛れて他人を自殺させる遊びに興じた事実を、残念ながら個人的に知っています。死者を弔う言葉を口にしながら、一方で人を殺そうとしていた。それを見たときに、その在り方にほとほと呆れてしまったのです。その時の私は、個人の信条に従い、内心において、かつて触れたその宗教の教えに沿うことをすっかりやめていたので、とても客観的にその姿を観察できました。そこにあったのは、その導き手が説いたことを形にしたものだけが存在していました。実(み)になる部分がどこにもありませんでした。振ればカラカラと鳴り響くもの。言い訳みたいな、空しさを心の内に描くことが出来ました。
宗教がそうだ、という話ではありません。宗教の教えはとても大事です。しかしながら、教えに対する慣れ方が人の中で生まれてしまった結果、その教えの実(じつ)の部分が薄れてしまい、形だけになる。そうして容易く、教えに反する行いをする自分を許せる。そういう心持ちを抱いてしまう、という難しさを正面から見つめたいのです。
学びと慣れるとの間に存在する、難しい関係です。
同じことを、聖人君子と評される方々も直面したでしょうか。もしそうだとすれば、それを踏破した彼らの足跡を、その力強さの残滓を感じることができるでしょうか。
宗教の話をもう少し続けると、苦しみの克服はその目的の一つなのだと理解しています。聖人君子の一人に挙げられるであろう、お釈迦様はその原因を人の感情や価値観などから生まれる執着に見出した、ということを何かの本で読んだことがあります。色即是空に表れているであろう無、とはそういう執着から放たれる大事な教えになるのでないか。と、浅薄な知識で語っては恥をかくだけなので、上辺だけの思い付きを記すに留めますが、苦しまない、は幸せを裏から見つめた一つのゴールかもしれません。
しかし、苦しまない、と考えるだけで息苦しさをどこかで感じる私の直観があります、この直観は何を見ているのか。お釈迦様に逆らう気はありませんが、ここを抜きに考えるのは自分を誤魔化すことになり、お釈迦様を前にして自分を疑うことなく、勇んで筋斗雲に乗り、手のひらをぐるぐると回り続ける資格すら得られそうにない。という、根拠になっているのかいないのか、判別がつかない意地を張り、黙々と考えてしまいます。
そうして時間をかけて見えてくるのは、苦しまない世界が、何も感じない世界に繋がっていると思えて止まない想像です。苦しみたい訳では勿論ないのですが、苦しめない自分ではいたくない。怒ることと同じで、私は苦しみの背後に肯定的なものとしてこれまで存分に感じてきた嬉しさ、喜びを置いている。これらを知っているからこそ分かる苦しみという反応。そこには隔たりがありません。そのために、これを否定することの意味が及ぶ先にある「結果」を想像して、私は慄くのでしょう。
空、になった世界に吹き、余りにも強く私の肌に触れてくる、直接的な風の威力を。
その世界に立つ私は、目の前にある全てが等価な世界に咲く花を踏みにじらない私でいられるのか。全てが等価な世界にあるものを損なったりしないと私は言えるのか、という答えたくない、知りたくもない疑問を。
真っ平らなその世界のどこにも大切に思えるものはなく、またその世界のどこにも不要と思えるものがないのです。ならば、全てがどうでもいいのでは?こう考えると、感情で凸凹になった世界の歪さは、実は世界に対する私の有り様を、とても深いところで大切に決定しているのでないか。そう思って見る私の怒りには、秘められた輝きがあるかのようです。
まとめるなら、存在に対する有り難さ、仰々しくいえば既に与えられた祝福を傷付けることへの恐怖心を背負わない限り、言語や意味を排した生(なま)の世界に向き合えない。そういう躊躇いが私の中にあるのを感じます。
同じ躊躇いを聖人君子が抱えていた、なんて大それたことは考えません。だからこそ、聖人君子が至った境地は私の想像を超えます。聖人君子が見ていた世界は、その世界に向き合った聖人君子の根底はどこにあったのか。俗っぽくいえば、「ああ、これでいいのだ」と承知できたその瞬間、聖人君子の足場はどこにあったのか。もう、想像の彼方です。
聖人君子の姿は影も形も見えません。しかし、ここで挫けては勿体ない。では、と負け惜しみを承知でいえるのは、だからこそ私が感じる躊躇いを跳ね除けて、跳躍を試みる程の意味を有する未だ識らない世界の側面が、聖人君子が去ったこちら側にあるのではないか。それを根拠づける聖人君子と評された彼らの大きな足跡なのだ、という評価です。同じことができるかは分かりませんし、できるとは思えませんが、その大きく、沈んだ形からは無言の励ましを感じざるを得ない。
その反動で飛び上がることが出来たのであろう、宙に広がる果てしなさを見上げるとき、降り注ぐ眩しさで目を閉じてしまう喜びがある、と記すと言い過ぎでしょうか。しかし、その全てを覆せない私がいま一度開く世界は、また少し違って見えるのです。
さて、やはりというべきか、最後に戻って来るのはここです。分かりやすく、分断されているとは言えない繋がり。どれだけ複雑怪奇な迷路を進もうと試みても、辿り着くスタート地点です。喜怒哀楽、ところころ変わる表情に隠された大切な何かは、私に「何を」教えてくれるでしょうか。学びとは、関係する姿勢そのものだと教わった記憶を引っ張り出し、しゃんと伸ばす背筋に隠れて、お尻を掻いたりする緩みを正し、向き合ってみましょう。
私は何に怒り、何を大切にするのか。
折角手に入れた数々の証拠を易々と手放すことのないよう、「心」という洞窟に響き渡る、声に満ちた明かりを見つけることにしましょう。
二
『喩えソング』、と勝手に私が命名しているだけですが、表向き歌われていることを通じて、恋心を見事に歌い上げている曲があります。この『喩えソング』の名手であると私が思うのがYUKIさんです。『プレイボール』に『バスガール』、そして『ポートレイト』は私の中の三大『喩えソング』であり、プレイリスト化を免れない必聴曲です。特に『ポートレイト』を初めて聴いたときの衝撃は今も忘れられません。あの時代、あの年代を生きた人でなくても、そこに並べられた名前に込められたセピア色の関係が写真に必須の光に照らされ、陰るところに向けられた表情が見えたりしないのに、こんなにも心を揺さぶる。YUKIさんのパワフルで可愛い歌声に重なる低音がまた新鮮で、歌という表現の幅広さを感じさせてくれます。『喩えソング』はまだまだあって、たむらぱんさんの『恋は四角』もお勧めです。
恋愛ソングでいえば、たむらぱんさんが提供した楽曲の中にも名曲が揃っています。例えば『誘惑したいや』ほど、背伸びをしない、等身大の恋を歌った曲には出会えません。
シンガーソングライター繋がりでいえば、スガシカオさんの『THE LAST』は墓場まで持って行きたい、と恥ずかしげもなくここに記せるぐらいに心打たれた一枚です。特に、『海賊と黒い海』は無機質に時間を進めるデジタルなアラームに代わり、規則正しくフロントガラスを拭くワイパーの「キュッ」とした音に助けられる二人の車内の雰囲気が伝わってくるようで、そこに歌われる歌詞が雨に滲むことなく、相手を思い、離れていかない浮遊感が堪りません。
そんな歌は、顔が見える歌い手によって奏でられます。そのために歌い手のイメージが曲に及ぼす影響を無視できないように思えます。例えばアイドルが歌う曲はライトな曲調がいい、という定番はあるでしょう。勿論、あえてそこを踏み越え、独自の色を出す素晴らしいパフォーマンスもあるので、定番はあくまで定番に過ぎない。しかしながら、昔から続くアイドルというジャンルを支えた定番は、アイドルの基底を支える要素であり続けるとも思えます(松田聖子さんのような圧倒的歌唱力があるとまた、違ってくるのでしょう。アイドルとしての定番を踏まえつつ、アーティストとしての歌唱力も高いレベルで保持できる。そこを目指しているのだろうなと感じるのがシャ乱Qのつんく♂さんが立ち上げたアップフロントであり、例えばアンジュルムさんの『Uraha=Lover』はその間にあるバランスを見事に取った一曲ではないかと思います)。
歌の歌詞、という一点にスポットライトを当てると、有名なコピーライターである一倉宏さんは『うちゅうひこうしのうた』の歌詞を書かれていますが、その著作である『ことばになりたい』の冒頭において、身悶えすることばへの思い、考えを一線で活躍された経験を踏まえて記されています。目的となるコミニュケーションに向かってぎこちなく働くことばへの眼差しは、収録されている各作品からも優しく感じられます。一倉さんの作品を見て、私は何か書いてみようと思ったことを忘れていません。私の出発点は、一倉さんが書かれた親子のオムレツでした。琴線に触れる、という表現をこの作品以外に使えません。また、せつないオカザキくんも好きなのです。
そしてこうして記してみて、私の中のことばへの遊び心を思い出して、嬉しくなったりするのです。
了
声