高台の下の





 冬はあまり得意ではありません。陶器を持つ手も震えます。私は乾燥肌なので,指も動かすたびに皮膚の皺に沿って文字通りひび割れます。酷い時には開くための傘のボタンを押す力にも耐えられません。集中した痛みは意識下で思うより広がります。意識は中心部に向かって少し傾いていると思います。流し台と同じです。手前の端っこからソロっと流した水も反対側まで勢いづいて,最後にはどこか遠くに流れて帰って来ないのです。
 指先のひび割れの痛みはこれと同じ要領で意識目一杯に痛く広がります。そんな時,タイミング悪く『バンッ』と傘が開いたら私は,目を瞑ってしまう。音に「驚く」からではありません。ひび割れている私に走った音から抜け出すには,内側に篭って反対側のドアーを開ける必要があるのです。それは背中にあります。背中は前見る私の,後ろ側にあります。車の後部座席に行くのにずっとフロントガラスを見ているわけにはいかないように,後ろに行くのに前を見る必要はありません(ややこしい話ですがその時はもう,背後の後ろが「前」になっていないといけません。)。だから目を瞑るのです。それはとても瞬時な自己防衛なのです。
 そんなひび割れる私はそれでも,陶器の取り皿を上手に持つことが出来ます。そして一度も,過分な言い方でなく「産まれてから一度も」,取り皿1つ落としたことがありません(積極的に取り皿を持つようになってからも。)。それはひとえに,私が取り皿の下の水底の住人であり,底の周りに住む皆のお陰なのです。





 私の地上の住処(日常生活をおくる,日常的な場所。)は市役所以外に公共施設がなく,煉瓦で出来る隙間に壁面がかえって頼りない中古マンションの下の空き店舗に,コンビニが新しく入ることでそれなりに人が集まり,また若者がたむろするという地域に住んでいます。そこではスーパーと同じぐらいに個人商店が目立っていて,瀬戸物屋さんも消費社会の波止場で海水を背にして生業を続けていて,私はそこでお椀などを買っています。その理由はその店内の第一印象にあるのです。
 瀬戸物屋さんの店内の第一印象はそれなりに圧倒的です。波止場で頑張っているお店ですから,良心が後でギクシャクして調子が悪くなるぐらいに気持ちを肯定的な表現の角まで詰め込んで膨張させてみても,その店内は狭い。そう言うのがかえって世界回りに良いと思えるぐらいです。
 その狭い店内には長方形で4段棚のラックが右から数えても左から数えても4つ,奥のレジに向かって縦に並んでいます。そしてその全てに瀬戸物が絶妙に配置されているのです。各瀬戸物の高台や見込み,あるいは茶落としの直径や傾斜を知り尽くしているかのように各瀬戸物は並べ合い,割って弁償する心配も要らないような,余分なスペースを間に置いて商品としてアピールもします。ただそれは各瀬戸物と真っ正面から向き合った場合の話で,入り口に立って視界一杯に長方形の棚を横目で見るように眺めると,大小様々な内容のゴツゴツっとした焼かれた土の迫力に飲み込まれそうになってしまいます(圧倒的な粘土の迫力,と油絵を学ぶ友人が言っていました。)。



 立ち往生の目に誰もが合わなくて済むのは,瀬戸物屋さんの主人の胃腸の調子まで検分され人間ドッグの要否まで指摘されそうな,両の目を太く1本に纏めた動かない視線に晒されるからです。主人の外見は失礼ながらその頭部の髪の無さに特徴付けられ,包み袋が足りなくなった時に立ち上がるその低い背丈とお腹周りの厚みにもう一度特徴付けられます。ポロシャツが色違いで着衣され,月曜日から始めて土曜日までに赤・白・黄色・緑・青で終わり,再び赤から始まります。月曜日に赤いポロシャツが戻ってきた時は意味なんて考えなくても良いような安心感でまた生活できるようになる。そうすれば,多分常連さんと八百屋の主人に大根で指摘されるようになるのです。
 青の水曜日の主人と初めて話してから,私は八百屋の主人が大根で押した『常連さん』という太鼓判の肩書きを担いで店内で良く会話しました。主人は視線を動かさないくせに(と言いいたくなるのです),話題豊富に話を展開させる癖があって,中途半端な深さの話題に興味を引きずられたまま次の話をしなければいけません(そうしないとその話題でも中途半端な深さの興味が生まれます。)。私は横からスコップをほじくるように合いの手を打つ術を手に,主人と楽しく話しました。
 子ぎつねの話は週末の白の土曜日の主人の話をほじくって出て来た話でした。






 それは子ぎつねのことです。子ぎつねは木の匂いと土の匂いの区別が付きません。想像を試みて下さい。視力は発展途上で,全てをそこに託すことは出来ません。拾える落ちた雪の音も,鳴いたら聞き取る同種の声も,生来的に限られてその仕切りを超えられません。区別の匂いは世界を大まかながら分節し,霜を溶かさないように光を細かく割って薄め,小さいその身を育てるように傷付けない木々の間を教えたはずです。風雪が消す前の記録を残した脚を休めて時に眠り,自転と一緒に春に向けゆっくりと回る硬めの広い大地の,隠れた安心場所を教えたはずです。
 原始的だからこそ出来る繋がり方を鼻腔の中に潜めたまま,子ぎつねは木の匂いと土の匂いの区別が付きません。陽が暮れて見えない目を開けたまま,脚は恐らく冬の日にはみ出ます(成長の可能性を十分に秘め,幼い身も見たままに収まらないのに。)。ぶつけた後脚に「痛てて」と思っている矢先にも大き過ぎる森は上にも下にも広くなり過ぎて,雲が地を這うどこまでも高い土の密度の中で,あるいは底ない木の根の隙間の蒼さの引っ掛かりのなさで,身の置き方から分からなくなり身の施し方まで忘れてしまいます。例えば肺を取られて抗議の鳴き声を出せなくても,代わりにホトトギスに鳴いてもらっても構わないと鼻腔の奥に眠ってしまう。鼻腔の中に住んでもいないから,陸上でも生物は呼吸して生きるのです。だから子ぎつねは,考えなければならないのです。陽が暮れて見えない目を開けたまま,すごく個体的に考えなければいけないのです。陽に晒されたお腹の中心部が火傷までしてしまって,その跡のままに沿って戻り方まで決められても。




 松明を持っただけでは何も解決になりません。子ぎつねが考えるべきは夜でも見える目を維持するための便宜性じゃなく,損なわれている内なるもの(しかも枯れ跡が見えるというイジワル付きの。)を前にする仕方とその後のことなのです。考える子ぎつねは警戒すべきヒトから口で加えられるスコップを譲ってもらい(数少なく集めた大事な木の実とその等価交換で,),その構造に秘められた基本的な使い方を教えてもらい,そして学びました。子ぎつねは潜ることにしたのです。それも土の中に。しかも中々に深く。
 結論は非論理的です。土の中には水を求めて木の根がびっしりと生えています(住むとこはなにせ森なのですから)。子ぎつねは底から区別は始まっていると決めたのです(どこまでも個体的なこととして)。深く掘り進めればいつの間にかその深さは,周りの土と木の根の一部に囲まれて,もう戻れない傾斜になります。そして子ぎつねはもう戻れないのです。底でもう一度子ぎつねはそこをさらに掘り進めます。今度はその身に合わすことなく,ただ鼻の幅と膨らみと長さに合わせ掘り進めます。そこで最後にするのです。できる限り息を吸って吐き,そしてまた吸って。匂いなく土は鼻腔の中を無遠慮に埋めていき,子ぎつねの鼻を帰れない傾斜を作る土たちとの区別を無くすのです。木はここで関係ないと言えません。物理的に木片が土に含まれている可能性だけでなく,木々が育つ土は腐葉の滋養を含みます。形ないままに木はやはり,子ぎつねを埋めていくのです。陸の上で暮らすのが子ぎつねで,そもそも息することは酸素とその他の元素の微妙にバランスされた空気を吸うことです。だから子ぎつねは息苦しさを超えていきます。そして子ぎつねは意識を失くすのです。
鉄の匂いもしたそうです。子ぎつねがそう,話したそうです。


 



 「土の話でもあるからね。」。それが週末の土曜日に白のポロシャツを着た主人が私に話した理由でした。その日は寒さが段々と骨身に近付いてくる足音まで聞こえそうなくらいに空気も澄んでい過ぎていて,陶器を持つ手に一段と注意を払っていました。そこに脈絡を敷くとしたらそれは上手な息継ぎ,ということになると思います。土曜日に白の主人は取り皿を珍しく進め,私はそれを等価の紙幣と少しの硬貨で購入したのです。
 





 瀬戸物屋さんで購入したその取り皿には少しの蔦が高台脇から伸びています。その構図は高台脇の下,すなわち高台辺りに生い茂るかなりの水生植物の群生がないと落ち着かない雰囲気を残しています。そしてそこには何かが住んでいないといけない。そういう無生物なりの生物としての気位がしっかりとその取り皿には備わって,何があっても絶えそうにありません。
 高台を持つ私の指は底近くに気まぐれに流されて来た大木のようです。すぐには底に馴染めません。寒さに震える私は取り皿の上からの重みを支える一点に気を取られて,それからどこにも行けません。高台と私の冷静な主従関係は私を寒さから離しません。震えるのです。まだそこでは。
 しかし焼かれても土は土とばかりに,瀬戸物である取り皿は滋養を忘れずにいます。取り皿の下に住む住人はそのことを忘れていません。まずは大きく私の手首を旋回です。様子を伺うのです。何せ取り皿の下にある高台には大木然として私の指があるのです。気まぐれに流されてきた大木のように。すぐに底にはなじめないままに。
 啄ばむという行為には過分なところがありません。口のサイズの目一杯ではないのです。小魚が一所懸命に食べるのは啄ばむことではありません。それは小さい口一杯に頬張っているのです(人のままにみると啄ばむように見えても。)。だから啄ばむことは積極的な意思に満ち溢れています。相手を知ることに通じています。
 啄ばむという行為には過分なところがありません。ゆっくり時間をかけるのです(間に顎も休めて。)。よく行く店内の緩やかな関係に似て,啄ばむことの前に何の関係もなく,啄ばんだ後に関係はあります。また来る時には最初より開きやすいように扉は半分だけ閉まり,その上で半分は開いたままなのです。だから家族には中々なれなくても,互いを知るものには辿り着くのです。
 皮下脂肪から啄ばまれて私というものは逆さに写る水面を過ぎてその水の中で風が吹いた矢先に,その質量の形だけ置いて底に溶けます。アトランダムに進むからすごくアンバランスで落ち着きなく,酷く息が苦しくなります(頭皮の汗も流れて落ちます。)。止めてと声出すことの大事さが見えてきます。失う意識を引っ張る意識は繰り返します。引っ張る意識を失う意識は終わるまで続いていきます。酷く息は,苦しくなります。
 何処に住む,誰の啄ばみかは分かりません。そして私の質量は限られています(指もその例外でありません。)。だからアトランダムも続けばバランスをとって,結果的な順序となるのです(シークエンス,と彫像彫りを趣味とする友人は教えてくれました。)。私の中のどれかは分かりません。しかし,区別の境目はその時にあります。私はもう取り皿の,高台下の住人となって順調なキックで泳ぐのです。
 大きい手首の旋回から,細かい指紋の一休みにも及び, 高台を有する取り皿と私との間にある境目はさらに誤魔化され,広がります。大きい声の「いただきます。」も,満足そうな小さい「ごちそうさま。」も同じになって,私も寒さと隣になるのです。「何してるの?」と聞けば,「君も何してるの?」と言われ,「あなたの隣に今は居るの。」と答えれば「僕の隣は君になってる。」と返され,「そんなこともあるんだね。」と,明朗に付け加えられるのです。
 瀬戸物屋さんで購入したその取り皿には少しの蔦が高台脇から伸びています。その構図は高台脇の下,すなわち高台辺りに生い茂るかなりの水生植物の群生がないと落ち着かない雰囲気を残しています。そしてそこには何かが住んでいないといけない。そういう無生物なりの生物としての気位がしっかりとその取り皿には備わって,何があっても,絶えそうにありません。




五  
 冬はあまり得意ではありません。
 これはファーストフードで,可能な限り手早く揚げられた熱いポテトを啄みながら言うことです。Mサイズという総数の中から1本1本のポテトを食べています。私の口の中では熱が摂氏1℃ずつほぐされて,自分でも分かるくらい順調です。それでも,店外に出るとやはりいけません。冬はあまり,得意ではありません。




豆電球と1ペアの影法師。冬の暗量は調整困難なのだと,黒のジャケットを羽織って暖かさそうに瀬戸物屋さんの主人は火曜日に私と広範な意味の「作家」を目指す友人に話し始めました。しかし私は主人の話もそこそこに,カレンダーを頭で捲って火曜日から新たな主人を作る準備をしたのでした。
 鶴以外の形を取らないのは,1滴の水も口にしない鶴が私に著しく足りないからです。それに脚をつけられないのは地上の鶴がいてもいいと思ったからです。先の子ぎつねのように。冬の暗量に手間取ることがあるように,冬の私が苦手なように。
 その折られた回数は20回。書きながら辿る記憶によると,それが折り鶴のためのものです。折られた回数は20回。保ったのは一晩。1ダースは12本。一箱の煙草は,専ら20本。それで少し安心もするのは,緩やかな繋がりがそこにあるからでした。
 瀬戸物屋さんから購入した取り皿の高台の下で,今日も住人は積極的に啄ばみます。底から顔を出すように,震えそうな指先で下から高台を支える私の指先は今日のお鍋に立ち向かっています。今日もまたキムチ鍋です。そんなこともあるのです。
 見ると窓辺の金属が冷えています。冬は静かに深まっています。




 




 
 

高台の下の

高台の下の

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-16

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