理屈っぽい夢を見た
ついぞ見た気がしない、爛れた朱と淀んだ墨の空が広がっていた。
いつもの「導き地蔵尊」の前にはすでに観光客はいない。
薄汚れた赤茶の光はきっと夕暮れで、「江ノ電」をまたぐ真紅の「桜橋」がさらに燃え立つように赤かった。
ささやかな「極楽寺」駅舎を左に見ながらダラダラと緩く下る。
低い石垣の続く先はもう、おれの家の敷地で、角に植えた古い染井吉野が黄昏に染まって河津桜の色だった。
多分、春なのだ。
そばの枝折戸を開け、400坪の山林傾斜の敷地に入る。
緑濃いはずの庭はなぜか空の反射で紅く、夕風も止んだ音のない世界に鎮まっていた。
裏山からの絞り水を流すでかい池が目の前にあって、妙なことに軽く湯気を上げている。
(あれ?…そうか、温泉を引いたんだっけ)
軽い疑問を自答して納得し、薄ら寒さもあって湯につかる。
なんとなく身体は温まった気がしたものの、服を脱いだ記憶はない。
我ながら奇妙な入浴だったが、違和感は全くなかった。
もと、祖父母の別邸だったここは、昔ながらの日本家屋が地形に逆らわずに、母屋と離れを渡り廊下でつないでいる。
高欄をめぐらした風情ある離れは障子が閉ざされ、祖父母は留守のようだった。
玄関を上がり、キッチンに移っても母すらいない。
そういえば「導き地蔵尊」からの道すがらも、だれにも会わなかった。
所在なく冷蔵庫を開けると越乃寒梅の四合瓶が並んでいる。
別に不思議とも思わずに、立ったまま山賊のように飲み下す。
(え?味違うじゃんか)
酒瓶を裏返すとラベルになぜか末期の水とあった。
水っぽいわけだ。
隣りには大学の学食にあるはずの券売機が並んでいる。
見慣れた文字を追うが、不思議に認識できない。
夕闇せまる赤い光で見えにくいのだろう。
灯りをつけるも全く変化がなかった。
どうせ散々食いあきたメニューのはずだ。
どうでもよくなって自室にこもる。
PCを立ち上げ、キーを叩いてみる。
『書けない』
と、打てた。
おれは年に一度くらい書けなくなる。
思考は混沌とし、言葉は茫漠として不明瞭になる。
渺茫とした無力感の底に、自嘲と軽賤、怠惰と懈怠が蠢く。
その色は恐らく、暗く濁った紅色(べにいろ)だ。
異様に長い夕暮れは、まだ続いているようだった。
◇ ◇ ◇
不意に、ここからは見えないはずの裏山の林があった。
竹林と広葉樹が入り混じった、「鎌倉市」らしい谷戸と里山。
歩き慣れた自分の敷地を、散策するように無目的に上がる。
つるつるとした木肌の猿すべりが数本、赤・白・桃色・紫の花をつけている。
相変わらず朱に染まった墨色の中でも、そこだけは妙に澄んだ色調を保っていた。
自分の着衣がいつの間にかその枝にかけられ、重みで折れそうにしなっている。
(露天に浸かって濡れているからだよ)
何かに向かって釈明する自分がいた。
足元がいきなり下る。
ここはまだ登りのはずだがどうしたものか。
坂道の端にたわわに実った桃の木があって、やわらかな仙果が間近に目につく。
引きもぎって食ってみるも無味乾燥で、実際に呑みこんだのかもよくわからない。
白っぽい石を積んだケルンがいくつも点在して、遠く見える荒れた河原には、かざぐるまが回転するのが見える。
紅い風景の中にさらに丹く、文字が浮き立って寄り集まり、黄泉比良坂と読ませて消えていった。
知らないわけではないここは、いったいどこだったろう?
夕焼けめいた焦げ色の空が遥かに続いて、その下の水面も辰砂(じんしゃ)に染めている。
混沌とした黒雲が長虫のように幾つも蟠り、板状の摂理を大気に刻んでいた。
いつか見た風景。
命終して生き変わり死に変わり、人界に封じられたまま幾多の彼岸を見続けてきた。
遥か昔に五頭龍だったおれは長者の16人の子供を15人まで人身御供として食った。
子死越え(腰越)と呼ばれた深沢の住処に、ある時、弁財天が降臨して江の島に降り立った時、おれは彼女に恋をしたのだ。
罪深い悪業は露わになり、弁財天は条件をつけて拒否し、傷心のまま、天部の自分は人界に落ちた。
人として生きるつれづれに、物語を醸しては書き付けるためにだ。
いつの日か彼女の眼差しを受け止めるために、やがては善倫の命を得るために。
書くことによって昇華される懺悔は、ひとつひとつが醜悪の鱗を消し、利他の慈悲を蘇らせる。
彼女が望む天龍八部に立ち返るために、おれは自らの生身を削り出す誓いを立てたのだ。
自ら意識せず沐浴し、末期の水を飲み、龍の衣を衣領樹の枝に託し、冥府の実を食ってここに来た。
元初の誓約の履行のために、自己の本分の覚醒のために、そしていずれは夫婦(みょうと)になろうという彼女の愛に報いるために。
恐る恐る赤濁りの水に浸かって行く。
瞬時にこわばる身体に失望の声を上げる。
賽ノ河原が鳴動するほどの咆哮はまだ善神のものではないのだ。
◇ ◇ ◇
立ち上げたままのPCが見えていた。
書けないの文字は消えていて、沈思する自分の影は重く長い尾を引いている。
いつもと寸分違わぬ部屋への安堵と落胆。
人の形の指を上げて文字をつづるためにキーを叩く。
書けないのではない。
のうまくさんまんだ
おん めいきゃ しゃにえい そわか
おん めいきゃ しゃにえい そわか
おん めいきゃ しゃにえい そわか
かしこみ かしこみ
たかあまがはらに ましまして
てんとちに おんはたらきを あらわしたもうりゅうおうは…
いっさいをうみ いっさいをはぐくみて
よろずのものをおんしはいあらせたもう おうじんなれば…
ひぃふぅみぃよぉいつむぅなぁやぁことぉの
とくさのおんたからを おのがすがたとへんじたもうて…
この身に刻んだはずの祈りをなぜ忘れていたのだろう?
おれは書くためにここに在り、物語を紡ぐために誕生を繰り返し、やかて万象を寿ぐために言の葉を積むのだ。
一つ積んでは己がため
二つ積んでは衆のため
三つ積んでは三世(みよ)のため…
やがて無量効の辰(とき)に飛翔する時、弁財天は琵琶を奏で、おれはその音曲に和するだろう。
目覚めの刻みが夢の託宣を意識の底に鎮め、何事もない白い朝をもたらす。
おれが書けなくなる時、常世の名残にはいつも、そこはかとない死の臭いがする。
理屈っぽい夢を見た